2015年8月13日木曜日

2015.08.13

終戦の日を前に。
祖母がこの間話していたことを備忘録として書いておこう。
空襲のこと。
終戦の日のこと。

聴かないと知らないことがたくさんあるなぁ。

時系列がよく分からなかったので間違っているかもしれないけど。
戦時中祖母は曽祖父の仕事の関係で神戸に住んでいた。

・疎開した先の神戸市内の別宅。
・その次に疎開した神戸市内の別宅。
・疎開した六甲の別荘。

の3回空襲に遭っている。

1回目の時は神戸の自宅にいては危ないということで、港のほうで貿易商をやっていた親戚の荷物も全て預かって、田舎に疎開したがその疎開先で空襲を受けた。
祖母いわく、米軍機は空襲で使った残りの焼夷弾が重いので、帰路の途中で落として行くことがあったそうで、この時もいくつかしか落とされなかったそう。

運悪く、祖母が住んでいた家に落ちてしまった。
当時、祖母たちは家には不在。
焼夷弾が落ちた衝撃で家があった場所には大きな穴があき、家財道具などが散乱していた。
預かっていた貿易商の取引先の綺麗な洋服が、爆風で飛ばされそこら中に散らばっていたそう。
私は焼夷弾は発火すると思っていたけれど、祖母いわく発火せずに吹き飛ばすだけだから、家は燃えていなかったという。
祖母は「全部燃やしてくれたら片付けせんでええのにねぇ、高価な服やから全部拾って歩いたんよ、迷惑な話や」と言っていた。
論点が違う。笑

2回目の時はまとまって爆弾を落とされたそう。
空襲警報が出て近所の防空壕に避難する途中、曽祖母は脚が悪かったので走れず「先に行って」ということでお手伝いさんと一緒に祖母を安全なところへ行かせた。

空襲が止んで、外に出て曽祖母を何人かで探しても見つからず「これはあかんかったかもしれん」と思い、翌日自宅へ戻るとそこに曽祖母が若い男の人と立っていて、無事を確認することができた。
その知らない若い男の人が曽祖母を負ぶって逃げてくれたそうで、家族が来るまで一緒にいてくれたそうだ。
「その方の名前を聞いてなかったけれど、感謝しかあらへんね」と言っていた。

3回目は神戸市内は危ないということで、六甲の別荘に一家で移り住んでしばらくしたころ。
別荘には庭に大きな防空壕があったので、祖母たちはそこへ避難。
近所の方達もそこへ避難していたそうだが、
向かいの家のおばあさんが家の中に配給でもらったお米を取りに家に戻ったところに爆弾が落ちて、空襲が終わったあと出てみるとそのおばあさんの米袋を持った手だけが飛んできていたそう。
その近辺で亡くなったのはその方だけで、
「そのおばあさんもかわいそうにねぇ。
みんなが食べ物に困るやろと思って、取りに行かはったんやろと思うけど何があっても逃げなあかんのや」と言っていた。

終戦の日は、いわゆる玉音放送は聴いておらず、
六甲から神戸市内に曽祖母と下りてくると、いつもはガーランド(軍用ブーツの横につけるもの?)をしっかりしている兵隊さんがそれを取っていて不思議だなぁと思っていたので、その方に聞いたら「戦争は終わったんです」と一言だけ言って去っていってしまった。
「そんなアホな」と思っていたけれど、
みんなから言われるし、そのあたりに跪いて泣いている人がたくさんいて「そうなんやなぁ」とだんだんと理解した感じだったそう。

玉音放送は後々、聴かせてもらったけれど「ハッキリと聴こえなかったので何を仰っているのか分からなかった」と言っていました。

当時祖母は13歳。
そんな時代をよく生きてきてくれたなぁと、
なぜかこの話を聴いた時に有難い気持ちになりました。
昔は戦時中のことは語ろうとしなかったけれど、だんだん年を取ってきて伝えなくては、という想いが強くなってきたのかなと思います。

まだまだ長生きしてもらわないといけないけれど、こういう生の話をきちんと聴いて残しておかないといけないなと思いました。

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